私が考える渓水寮

渓水寮に入ることはどういうことだろうか。渓水寮は他の寮とは違って少人数だし、自治寮である。そのため、一人一人に与えられる役割の比重が高い。渓水寮は一年間でさまざまな行事があり、大変なことはいくつもあるが、それだけかけがえのないものがたくさんつまっていると思う。行事を通して他の寮生と関わることになるが、自分とは合わないと感じる寮生もいるかもしれない。寮にいる皆は誰もとても個性が強い。個性が強いということは、それぞれ違うバックグラウンドがあり、意見の衝突も生じうるということ。しかし、それを嫌って避けてしまうのか、受け入れることができるのか。それは渓水寮に入った人なら誰でもぶつかる壁だが、彼ら、彼女らと暮らすことで、他人に対する苦手意識を克服できるかもしれない。どんな人とでも上手くやっていける力はこれからの社会を生きて行く上で不可欠な要素のうちの一つだと思う。この力を養えるところは寮でなくともできると感じてしまうだろうが、やはり、大抵のものは表面だけの付き合いで終わってしまい、逃げたくなれば逃げられるものである。だが、渓水寮では、そうはいかない。どんなことがあっても、それと真摯に向き合わなくてはならない。これは、辛いことのように思えるかもしれないが、こういう環境こそが人を強くしてくれるものだと思う。この環境を与えてくれるところが何よりの渓水寮の魅力であると思う。

(文責 工学部2年 若山)

人間が住む場所

渓水寮に住んで早2年。この間、本当にいろいろなことがあった。渓水寮には、自治寮なりの厳しさがある。係仕事をきちんとこなす、寮生総会や公式行事には必ず参加するなど、一人暮らしの学生より、寮のために割くべき時間が増える。つまり、自分が自由に使える時間が減るということでもある。「一人暮らしだったらもっと楽だったのに」と一度も思わなかったと言ったら、ウソになるだろう。

しかし、それでもこの寮に入ったことを後悔したことはない。人間は、一人で籠っているよりも、他人と摩擦することで一段と大きくなると思うからだ。人間関係も然り、自分の仕事をきちんとやること、寮の行事を成功させることなどは、時には負担になるけど、その負担の大きさの分だけ、返ってくるものも大きい。寮生一人一人も、知れば知るほどその人について新しい面が見えてくる。最初の第一印象で自分と合わないと思ったからって、その人と近づくことを放棄するのは、ただの逃げだと私は思う。ぶつかって、核に迫って、何年も一緒に住んでこそやっと見えてくるその人の良い面がある。そんなことがどこよりも可能になる場所が、渓水寮である。一人暮らしじゃないからと言って、自立できないわけじゃない。むしろ、一人暮らしより成長できると私は断言する。

また、渓水の大きな魅力の一つは、キリスト教に触れ合うということだ。寮生13人中キリスト者は3人しかいないし、今までほとんど関わってこなかった寮生もいる。しかし、寮での朝拝・公式行事・聖書研究などを通して、少なからずキリスト教に関わることになるだろう。あまりにも人本主義的になってしまった現代では、「神」の存在について考えること自体に拒否感を覚える人も多いと思う。しかし、目に見えないものの存在を、目に見えないからと言って否定するのは、本当に愚かなことだと私は考える。自分であがいて、多少険悪なムードになろうが他人と論争して、真理にぶつかっていく勇気が必要だと思う。渓水寮にいる間は、「宗教」という一見倦厭されがちなものにも、真摯に、真っ直ぐに向き合ってほしいと思う。

繰り返しになるが、寮生活が楽しいことばかりだなんてきれいごとを言うつもりはない。つらいことも多く、面倒なことも多い。でも、人間はやっぱり苦い薬を食べてこそ元気になるのだ。つらいことから目を背けなければ、いつかその何倍もの喜びがやってくる。渓水寮ではそんな寮生活を営んで行きたいと思っているし、新入寮生のみんなも、一緒に質の高い寮生活を作り上げて行ってほしい。

(文責 文学部3年 ペク)